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大海人皇子(おおあまのみこ)天武天皇(てんむてんのう)

時代背景

大海人皇子は大きな権力を持っていた蘇我氏が政治を行っていた頃に天皇の子、かつ天智天皇(てんじてんのう)の弟として生まれました。
大化の改新を行った天智天皇が病で倒れると、天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)との間で後継者争いが起こります。

壬申の乱(じんしんのらん)

672年
天智天皇が亡くなったことで、弟の大海人皇子と子の大友皇子の間で天皇の後継者争いが起こりました。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は新たな都として飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)の造営を開始します。

飛鳥浄御原宮の遷都と天武天皇の即位

672年
大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都(せんと)しました。
大海人皇子は飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位し、政治を行っていきました。

飛鳥浄御原令の編纂開始

681年
天武天皇は皇族主導の政治体制を目指すために飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂(へんさん)を開始しました。
完成する前に天武天皇が亡くなってしまいましたが、持統天皇(じとうてんのう)に引き継がれて689年に発布されました。飛鳥浄御原令は日本最初のまとめられた法典と言われていますが、現存していないため謎が多いです。また、689年に発布された飛鳥浄御原令は行政に関する法律しかなく、刑法の制定がない不完全なものでした。

国史の編纂開始

681年
天武天皇は日本の正しい歴史を後世に伝えるために国史の編纂を開始しました。
完成する前に天武天皇が亡くなってしまいましたが、後に『日本書紀』と『古事記』として完成しました。

八色の姓を制定

684年
天武天皇は天皇を中心とした皇族主導の政治体制を目指すため、新たな身分秩序として八色の姓(やくさのかばね)を制定しました。
天皇と近しいものや皇族などを上位に置きつつ豪族を新しい身分秩序に編成し、天皇や皇族の地位を確かなものとしました。

天武天皇の死後

686年
天武天皇が亡くなりました。
天武天皇の妻が持統天皇(じとうてんのう)として即位し、天武天皇の政策を引き継いでいきました。

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