時代背景
中大兄皇子は大きな権力を持っていた蘇我氏が政治を行っていた頃に天皇の子として生まれました。
大きくなりすぎた蘇我氏を排除するために中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我氏を倒す計画を企てます。
乙巳の変(いっしのへん)
645年
中大兄皇子は中臣鎌足とともにあまりに大きくなりすぎた蘇我氏を倒すためクーデターを起こしました。
蘇我入鹿を暗殺し、父の蝦夷も自害したことで蘇我氏の勢力はおとろえていきました。大化の改新(たいかのかいしん)の始まりです。
※大化の改新とは天皇中心の国づくりを目指して行った一連の政治改革のことです。
改新の詔(かいしんのみことのり)を発布
646年
中大兄皇子は天皇中心の国づくりを実現させるために改新の詔を発布しました。
改新の詔には「すべての土地や人は国のものだよ」という公知公民(こうちこうみん)とか、「戸籍を作ってそれに基づいて田んぼをあげるよ」という班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)とか、「地方を国とか郡とかに分けるよ」とか、「新しい税制を取り入れるよ」という内容が書かれていました。
法に基づいて国を支配していく律令国家の礎ができ、天皇中心の国づくりが着実に進んでいきました。
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)
663年
朝鮮半島で唐や新羅に滅ぼされた百済が助けを求めてきたので中大兄皇子は百済救援に向かいました。
日本と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍にボコボコにされ、百済は復活できませんでした。中大兄皇子は唐が攻めてくる可能性を考えて、北九州や西日本各地に堤防やお城などの防衛設備を設置しました。
近江大津宮(おうみおおつのみや)の遷都(せんと)と天智天皇の即位
667年
中大兄皇子は海からの敵の侵攻に備えるためか、内陸に位置する近江の大津宮に遷都しました。
中大兄皇子はこの近江大津宮で政治をおこなっていきました。翌年の668年には中大兄皇子は天智天皇として即位します。
天智天皇の死後
672年
天智天皇が亡くなりました。
天智天皇が亡くなると、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)と子の大友皇子(おおとものみこ)による天皇の後継者争いである壬申の乱が起こります。
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