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聖徳太子 (しょうとく たいし)

Illust:MUTUKI

時代背景

聖徳太子は大陸から仏教が伝来して少しずつ広まっていた時代に生まれました。
しばらくすると仏教を受け入れる仏教賛成派と仏教を受け入れない仏教反対派の争いが起きました。
結果的に仏教賛成派が勝利し、そのボスと聖徳太子は手を組んで政治を行なっていきます。

摂政になる

593年
聖徳太子は天皇の政治を助ける役職である摂政となって推古天皇を補佐しました。
当時最強だった蘇我馬子とともに天皇中心の政治を目指して冠位十二階や十七条の憲法などを制定していきます。

冠位十二階の制定

603年
生まれた家に関わらず、優秀な人材を登用するために冠の色で位を分ける冠位十二階を制定しました。
どんなに身分が低いものでも能力や功績によって昇進が可能になりました。

十七条の憲法の制定

604年
仏教を重んじることや豪族たちの官僚としての心構えを説いた十七条の憲法を制定しました。
冠位十二階と十七条の憲法の制定によって国家としての制度が整いました。

遣隋使の派遣

607年
当時最先端の文化を取り入れるために国書を持たせた小野妹子を隋に派遣しました。
国書には「対等なお付き合いをしましょう」などと書かれていて、当時の隋の皇帝はめちゃくちゃ怒りましたが、後に認められました。
隋と対等な交流が始まり、日本に最新の文化が多く入るようになりました。

法隆寺の建立

607年
父である用明天皇のために聖徳太子が推古天皇とともに法隆寺を建立しました。
数多の歴史を潜り抜けて世界最古の木造建築物として世界遺産に登録されました。

四天王寺内に四箇院を設置

聖徳太子は病気の人に薬を与える薬局的な施設や病気の人を治療する病院的な施設などを四天王寺内に設置され多くの人々が救済されました。

※四天王寺は593年に聖徳太子が大阪に建てた寺です。四箇院はその寺の中に設置された4つの施設のことです。

その後

622年
聖徳太子が亡くなりました。
聖徳太子の死後、聖徳太子とともに政治を動かしてきた蘇我氏が力を持ちはじめていきました。

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